映画「マイ・バック・ペイジ」

若者は何者かになりたがる、そしてそうなれると信じている。
自分は特別な人間なのだと!

しかし、そのような思いを持ち続けて生きていける人は少ない。どこかで知ってしまう。自分の凡庸さを。それをひとは挫折と呼ぶ。
そして、年をとって振り返る。あのとき、おれは若かったと。何もわかっちゃいなかったと。

一握りのひとだけが何者かになれる。世間では、そうしたひとには才能があったから挫折せずに済んだのだと言われる。
でも、そうではないだろう。程度の差はあれ、誰しも理想と現実のギャップに苦しんだことがあるはずだ。
何者かになれたひとは、そのギャップと折り合いをつけながら、それでもなお希望を捨てなかったのだろう。
悪く言えば、しつこいのだ。

この映画が描くのは挫折を知る前の若者たちと、彼らの挫折。
学生運動華やかりし時代、若者の希望はわかりやすい形で目の前にあった。病んだ社会を変革する革命家。
この理想像をめぐって、ふたりの男の青春が交錯する。
革命家として名を上げたい学生と、その学生に自身の革命への憧れを投影する新人記者。記者は自分の夢を託す学生に必要以上にのめりこんでしまう。それを理解したうえで、学生は記者を利用しようとする。ふたりは依存を深めていく。
当然、学生が挫折すれば、それは記者の挫折も意味する。
そして、その日はやってくる。学生がただの革命家を装った男に過ぎなかったことが判明するときが。
そのとき、記者は学生を警察に売るかどうかを問われることになる。
学生と同様に、挫折を受け入れ、これまでの希望を捨て去り、学生を糾弾する側に回るのか、それとも挫折と折り合いながらぎりぎりのところで踏みとどまるのか。
結局のところ、記者は学生に失望しながらも警察に売ることはせずに、最低限のプライドを捨てずに仕事をやめる。
革命への憧れは諦めても、プライドは売らなかったのだ。
それでも、希望を不完全なまま抱えながら生きていくのはつらい。理想と現実の板ばさみに苦しみ続けるからだ。最後のシーンで、記者は古い友人とばったり再会して涙が止まらなくなる。その友人に小さな、本当に小さな希望の実現を見たからだろう。
記者が苦しみながらも小さくてもいいから希望をひっそりと抱えて生きていってくれることを願う。
これはかつて若者であった人々にとって救いなのだから。