映画「紀子の食卓」

愛のむきだし」で園子温のファンになって以来、見たかった「紀子の食卓」を鑑賞。

園さんは家族をめぐる物語であるとインタビューで述べられていたが、僕はアイデンティティをめぐる物語として捉えた。
恐らく、これらふたつの視点は対立するものではなく重なる部分が多くある。どちらに立つにせよ、テーマが重厚であるにもかかわらず躍動感あふれるストーリーになっており、観客をつかんで離さないthe園子温filmであった。
次は、「自殺クラブ」か「気球クラブ、その後」を見たい。ただ、ツタヤに置いていないのが悩みどころである。


この映画の登場人物のアイデンティティ(ID)は以下のマトリックスの中で揺れ動く。このマトリックスを構成する軸は、IDが一回限りのものか継続的なものか、IDを与えるのが自己か他者か(内生か外生か)のふたつの要素である。
理屈のうえでは、四パターンが考えられるが、実質的には①他者に与えられる継続的なID、②他者に与えられる一回限りのID、③自己で定義する継続的なIDの三パターンである。

物語のはじめ、姉の紀子と妹のユカは、父親のテツゾウによって「理想的な家族の一員」としてのIDを与えられ、それにふさわしいふるまいを要求されている。つまり、二人のIDは①に該当する。
しかし、紀子はそれに耐えられず、家を出て東京に行ってしまう。東京で彼女にIDを与えたのがクミコである。ただし、クミコは固定的なID(役割)を紀子に強制せず、むしろ異なるIDを次から次へと与えていくことで紀子を救済した。こうした紀子の新しいIDは②に該当する。IDを固定しないことで、紀子は何者にも束縛されない自己を見つけられたと安堵するのである。しかし、それは同時に紀子が何者でもなくなることを意味する。
ユカは姉からのメールでそのことを知り、紀子が自分の姉でなくなっていくことに不安を抱く。いつまでも理想の家族という神話に固執するだけの父親に失望し、自ら姉のいる東京に赴くことを決める。そして、ユカは姉と一緒にさまざまなIDを演じていく。そうすることで姉とともに生きようとするのである。このようなユカの心情と行動から、彼女のIDを明確に位置付けることは難しい。というのも、ユカはテツゾウの求める①や姉の求める②を自覚的に付き合っているように見えるからである。映画の中で最もあいまいなIDを持っているのがユカであり、それゆえに映画のラストで彼女はIDを自分で探していくことを決心する。つまり、少なくともユカがたどりついたIDは③に該当する。
紀子とユカを失ったテツゾウは内省するが、何が問題であったのかを最後まで理解できず、物理的に子どもたちを取り戻そうとする。その結果、紀子は②のIDと決別して、何者かであろうとする。ただし、紀子が①に戻るのか、あるいは③に向かうのかは明らかにされない。
一方、ユカはIDの揺らぎを認めずに自分の見たいIDを押し付けてばかりのテツゾウと紀子に失望し、彼らをいとおしく感じつつも別れを告げ、自己のIDを探す旅に出る。最もタフな人間として、ユカは描かれているのである。


以上のIDをめぐる物語に対する個人的な思いは、次のようなものである。
人はユカほど強い人間ばかりではない。だから、僕らは他者に与えられる社会的なIDを果たしながら、一方で自分だけのIDのための場所を確保していくしかないんじゃないか。例えば、サラリーマンとして働きながらも、固有名詞としての自己を生きるいったように。
IDの揺らぎを受け入れ、重層的なIDを構築していくことこそ必要なのである。また、このことは他者に自分の望むIDを必要以上に押し付けないことを意味する。というのも、他者のIDの揺らぎも認めなければ、こうした立場をとることができないからである。
究極的には、この映画は寛容な世界観につながっている。