映画『ノルウェイの森』②

映画を見ながら、「ノルウェイの森」が重層的な物語であり、それゆえ読むたびに新たな発見があるのだなあと思った。

今回の発見は、登場人物を一次元の軸で整理できることであった。

死と生を両端にとる軸を考えてみる。

若くして命を絶ったキズキや直子の姉は、死のベクトルの端に位置することになる。
直子は身近な人間の死を通して、徐々に死のベクトルに引きずられていく。ワタナベは何とかそれを阻止しようとしたが、結果的に直子も死のベクトルの端にたどり着き、キズキたちの世界に行ってしまう。

他方、生のベクトルにはミドリやナガサワさんがいる。ここで面白いのは、生のベクトルにいる人間には生きるだけの意味を与えてくれるものがあることである。それは、ミドリにとって愛であり、ナガサワさんにとっては合理主義であった。

では、ワタナベはどうだったか。彼は最後まで両方のベクトルの間で立ち往生していた。ミドリに「どこにいるの」と聞かれても「ここはどこだろう」と答えるからである。ただし、ミドリに恋をしていくにつれて、生のベクトルに向かっていたとも解釈できる。物語が終わった後、彼らが愛というレーゾンデトールを共有できたと信じたい。

このようにワタナベを解釈すると、直子が死に向かったのはワタナベのせいであったと言える。直子がワタナベを心から愛せるようになるまで、ワタナベは待つことができず、ミドリを愛して一人で生に向かってしまったからである。直子は離れていくワタナベの背中を見ながら、生の世界と決別したのだろう。これは直子なりのワタナベに対する優しさであったのかもしれない。

だからといって、ワタナベを責めるのは酷である。誰かを愛することは簡単にコントロールできるものではない。ここに、この物語のやるせなさがある。

しかし、物語の終盤にひとつの希望が提示される。レイコさんが旭川に、生のベクトルに進んでいく場面である。彼女は死のベクトルにいた人でありながら、直子の死を受け止め生きていく決意をする。このように死から生に戻ってきた人はレイコさんだけであり、それゆえ僕はここに一縷の希望を見る。彼女は旭川できっと愛を見つけただろう。そう信じたい。

もう一度、映画を見たいな。